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ローランドW フォーク従軍牧師のインタビュー

1974年カリフォルニア州サンディエゴで録音されたアメリカ海軍オーラル・ヒストリー・インタビューより抜粋


“…沖縄戦は1945年の復活祭の日曜日に開戦しました。ミズーリは沿岸軍事施設や滑走路などへ艦砲射撃を行いました。戦いが激化し長期化する事は明白でした。海岸には多くの塹壕が掘られており、日本兵たちは那覇戦線沿いの多くの塹壕から思いのほか長い間にわたって抵抗したため、我々の上陸部隊は当初予想したよりも困難を強いられました。

沖縄戦において米国海軍は、他の島での戦いでは経験したことのないような苦戦を強いられました。日本軍は沖縄戦が決戦の山場であるとふんでいました。よって、日本軍は新しく編み出した戦術であった神風特攻を含む全ての出しうる戦力で臨んできました。

空母機動部隊は沖縄戦での日本艦隊並びに沿岸の軍事施設や瀬戸内海への攻撃を援護しました。それに従い、日本の航空部隊にとって空母を倒す事が主な目標となっていきました。戦艦ミズーリは第38空母任務部隊と共に配置されましたが、雷撃機によって日本最後の巨大戦艦の一つである大和が1945年4月7日に撃沈するまでは神風特攻隊の標的になることはありませんでした。

戦艦大和が沈んでからは、日本の神風特攻隊の当面の主な標的は戦艦でした。そして、1945年4月11日に戦艦ミズーリは初めて神風特攻機の攻撃を受けました。私は上層構造部のはしごを上って艦橋まで行き通路に出て行こうとした際、急いで艦橋の右舷側から左舷側へ移動する士官たちに危うく踏みつけられるところでした。

神風特攻機が船尾の方角から艦橋に向かってくるように見えたため、士官たちも大急ぎでした。若き特攻隊員は自死に向かって水面ぎりぎりを飛行していました。その機は、船尾まで、2、3マイル(3~5km)のあたりですでにその存在を捉えられていたので、戦艦ミズーリからだけではなく他の船からの集中砲火を受けました。

船尾の40mm機関銃担当の乗組員たちは、特攻機が向かってきた時の様子を、砲火の雨をくぐりぬけ、かがみながら操縦しているその特攻隊員はまるで競馬の騎手のようだった、と私に話しました。そして機体は第三砲塔後方に激突し、左翼は100フィート(30m)ほど前方にある副砲の後ろのボイラー室の通気のための吸気口付近に落下しました。(翻訳者注:実際にデッキの上で発見されたのは、この機の右翼部分であったと推測されています。)また、爆弾は爆発することなく、メインデッキに残された特攻隊員の上半身のご遺体以外は機体と共に海へ落ちました。

翌朝、18,19歳位と見られるこの若い特攻隊員の為に水葬が行われました。水葬の命令に対して不平を漏らす者もいましたが、ご遺体はもはや敵ではない、と私は周りを諭しました。私が知る限り、第二次世界大戦におけるこのような状況の中で、この種の葬儀が行われた唯一のケースではないかと思います。