日本の降伏と第二次世界大戦終結の回想
スチュアート S. (サンシャイン) マレー アメリカ海軍中将(退役)
1974年メリーランド州アナポリスで録音されたアメリカ海軍オーラル・ヒストリー・インタビューより抜粋
マレー中将:"…日本の代表団は重光外務大臣を筆頭にした11名と聞いていました。重光大臣は外務大臣であり、また大日本帝国軍の天皇の代理でした。そして軍人でない日本政府の代表の3名、帝国陸軍の代表の3名、帝国海軍の代表の3名を含む合計11名の編成でした。
また、重光外務大臣は数年前に上海で片足を失って義足であるという情報を入手していました。実はこのことが問題となったのです。翌朝8時までに日本の代表団を乗せた駆逐艦を戦艦ミズーリの艦首あたりまで来させ、そこから小型ボートに乗り換えて時間に間に合うように搬送する予定でした。マッカーサー元帥は日本の代表団が露天甲板に5秒以上留まることを、また1秒たりとも遅れることを望みませんでした。式の開始は9時です。舷梯を上がり、デッキを歩いて更に1つ上のデッキに上がってから6メートルほど歩いて日本の代表団が立ち位置につくまでの時間を予測するにあたり、若い乗組員のズボンの中にモップの柄を入れて足が曲げられないように固定し、小型ボートから上がらせて代表団と同じ条件下でテストを行いました。
私たちは20回ほどテストを行いました。ボートから降りて舷梯を登ってメインデッキに上がり、クォーターデッキから降伏文書調印式が行われる艦長室前のベランダデッキまでどのくらいの時間がかかるのかを検証しました。その時間は遅くとも1分30秒ほどでした。この乗組員たちは日本の代表団よりも機敏に動いていると想定し、時間を2倍し、少なくとも3分はみなければならないと判断しました。もし3分よりずっと多くの時間を与えると代表団が式場に到着するのが早くなりすぎてしまいます。こうしてこの件は結論に達しました。9時より4分前の8時56分に日本の代表団のボートを着けさせ、1、2分は下の乗船場で舵手に少し待つように指示して調整する予定でした。
これが準備が整ったと自分たちが思っていたことのひとつでした。その他には、たしか前夜の9月1日にようやく、調印式ではネクタイ着用、一切の武器の所持禁止、開襟のカーキの軍服着用の服装規定が言い渡されました。帽子(略帽もしくは通常の帽子)に関しては自己判断でしたが、ほとんどの者は被って参列しました。
そして私たちは出席者のリストを受け取りましたが、そのうちの1、2名は式の直前に到着するかもしれないとのことでした。それらの人々には、どこか空きのある場所に立ってもらうことにしました。右舷側のベランダデッキでは、第二砲塔を右舷前方に向けることにより8~10名ほどが立てる場所をさらに確保することができました。12~15名ほどのカメラマン用に調印式会場の前の部分に足場を組んで台を特設しました。調印式が行われたデッキを私たちは、“サレンダー(降伏)デッキ”と呼ぶようになりましたが、これは今でもそう呼ばれていると思います。その台よりもやや小さい8~10名用の特設台も右舷側に設置しました。またベランダデッキ右舷側の40mm機関砲を直立させ、弾薬箱を取り除いて作った特設台には6~8名のカメラマンを配置することができました。その他のカメラマンたちは調印式会場の上層に配置されました。
全てのことはハルゼー大将のスタッフと共に時間をかけて計画、実行されました。。私は特にカーニー大将とやりとりを行いました。さまざまな計画について私たちが決定したことのうち、ニミッツ元帥に報告すべきもの以外は、承認をもらうためにカーニー大将に確認を行いました。
サイドボーイの数については、中将には8名、少将には6名、大佐には4名、日本の代表には8名などと決まりました。サイドボーイの敬礼と号令のみで、海兵隊による栄誉礼や軍歌の演奏もありません。
ゲスト、新聞記者、カメラマンの配置場所に印をつけていると、海軍長官が調印式に参列する追加のゲストを送ってくるので良い場所を準備するよう指示がありました。第二砲塔の上に居てもらえれば全てを上から見渡すことができ、かつその他のプランの妨げにもならないので好都合だと思いました。海軍長官のゲストの他にも、記者のアッシュ氏など特別な場所を用意するように要望があったゲストは、全て第二砲塔の上に行ってもらいました。
Q:どこに行ってもらったのですか?
マレー中将:それらの人たちには、海軍長官のゲストと一緒になって第二砲塔の上に上がってもらいました。記憶の限りではそこには8名ほどいたと思います。そして椅子に座ってもらいました。立つよりは座ったほうが安全です。落ちる心配がないからです。
この他でもうひとつ厄介なことがありました。海軍のニミッツ元帥と陸軍のマッカーサー元帥のふたりがそろうため、それぞれの5つ星の旗を掲揚します。マッカーサー元帥は5つ星の赤い旗で、ニミッツ元帥は5つ星の青い旗ですが、私はニミッツ元帥に対して、ふたつの旗を同じ高さに掲揚するかどうかを尋ねました。するとニミッツ元帥は、これは海軍の船であるから、自分の旗を右舷側に、マッカーサーの旗を左舷側にして同じ高さで掲揚するようにと、強い調子で言いました。これは単純なことのように聞こえますが、120フィート(約36.6m)かそれくらいのマストの一番上にふたつの旗を掲げるとなると、そう単純ではありません。私たちは、この問題をピッグスティックという旗を掲げるための棒を作って解決しました。この棒をメインマストの上に溶接して底に2つの旗を取り付けました。右舷側には5つ星の青い旗で、左舷側は5つ星の赤い旗です。これらの旗は、ふたりそれぞれが乗艦する時にロープを引っ張って旗が開き、風にたなびくようにしました。
もちろんハルゼー大将の4つ星の旗も掲揚していましたが、ニミッツ元帥の旗を掲揚する際には降旗しました。マッカーサー元帥の旗がニミッツ元帥の旗より低かったり、逆にニミッツ元帥の旗がマッカーサー元帥の旗よりも低かったりするかもしれないと思うと、はじめはこの棒を取り付けるのは気が進みませんでした。おそらく両元帥自身がそれに気づくことはなくても、それぞれの部下が気づくことになるでしょうから。
Q:このようなことは、その現場に居合わせた当事者でないと、問題だとは思わないことですね。
マレー中将: そうですね。しかしながら、些細に思えることが時に重要な意味をもつこともありますから。
Q:たしかにその通りですね。
マレー中将: 私たちが準備をしている際、誰だったかは分かりませんが、マッカーサー元帥とニミッツ元帥とハルゼー大将の署名入りカードを参列者に配布してはどうかとの提案がありました。この提案により、“このカードは、1945年9月2日東京湾で行われた降伏文書調印式に○○(空欄)が参列したことを証明する”と旭日旗の上に書かれたカードが作成されました。カードを正面にして、左側にマッカーサー元帥の署名、その右側にはニミッツ元帥の署名、その横にはハルゼー大将の署名が記載され、艦長として私も右側に署名をしました。戦艦ミズーリの印刷担当は大変優秀で、昔のサタデー・イブニング・ポストの記事に掲載されたマッカーサー元帥の署名を使ってカードにぴったりと転写しました。完璧な出来ばえでした。そしてハルゼー大将から許可をもらうためにそのためし刷りを彼に見せました。ハルゼー大将はよく出来ていると思ったでしょうが、“俺のサインは盗ませない。今サインするからこれを使え。”と言い、署名しました。一方、私は自分で1枚ずつサインをすることにしました。そうすれば印刷担当兵がカードを作りすぎることもありません。それらには私のサインがないのですから私が管理できるのです。
マッカーサー元帥とニミッツ元帥に署名入りのカードのサンプルを見せてカードを配布する許可をもらった後、カードを作りました。おふたりとも最初は冗談かと思ったようですが、署名を他の目的で使用さえしなければ問題なしと了承をいただきました。
このようにして戦艦ミズーリ全乗組員を含む艦上での参列者ひとりひとりに対して1枚のカードを配布する手配が整いました。カードを受け取った後に追加でもらえないか聞く者もいましたが、私はひとり1枚だ、と断りました。ニミッツ元帥が何気なく、海軍長官やキング元帥などにも送るというので追加のカードを依頼されましたが、それでも私はカードに記載されているように実際に参列した人ひとりにつき1枚のみ配られる、としてお断りしました。そうしたほうが、ひとりひとりにとってずっと意味のあるものになるのです。するとニミッツ元帥も同意してくださり、“わかった。誰にも追加のカードは渡すな。もし誰かが圧力をかけて来たら、私に言え。味方になってやるから。”とおっしゃいました。
急な出席者にも対応出来るように余分に数枚作っておいたのですが、実際直前に海軍長官のゲストが数名ほどお越しになりました。配布が終了すると、型と言うんでしょうか、印刷屋が使う原版などを焼却炉で全て燃やしました。副艦長、大尉、2名の乗組員もその場に立ち会いましたので、これは間違いありません。原版は燃やしたあとは完全に使い物にならない状態でした。そしてそれを舷側から投棄しました。カードは全て燃やしたので、技術に長けた誰かが自分のカードを模造でもしない限りは余分なカードは存在しないことになります。模造されたとしても驚きませんが、そのようなことは一切耳にしませんでした。
Q:全くそのようなことはなかったのですか?
マレー中将: 時々検査のようなことをしていたのですが、カードを所有していた者は、ほとんどが鍵のかかる場所に家宝のごとくしまっていました。またカードを持っていない者は、カードのことを知らされることもなかったようです。とにかく、9月1日の夜遅くになってやっと全ての準備が整ったと思いました。
Q:緊張しませんでしたか?
マレー中将: 手間取ることも多々ありましたので気を休めることは出来ませんでした。記者やカメラマンは横浜から2隻の駆逐艦で移送し、午前7時半ごろ戦艦ミズーリに到着する予定でした。マッカーサー元帥は駆逐艦で午前8時30分から40分の間に到着予定で、その他のゲストはそれぞれ何らかの可能な移動手段でミズーリに来ることになっていましたが、小型のボートで来ることはわかっていました。翌日9月2日の朝、たくさんやることがある上に200名以上の乗組員と約20名の士官がまだ陸地にいましたので、早くから起床ラッパを吹き準備にとりかかりました。
Q:ミズーリはどこに停泊していたのですか?
マレー中将: 横須賀沖の東京湾で、1853年にペリーが錨を降ろした場所と同じ所に停泊していました。7時15分ごろからは調印式を見に来るVIPや署名をする代表者たちが、さまざまな方面から次々とやってきました。
東京湾外で活動を続けていた第三艦隊からや、その周辺の船からも参列者がやってきました。午前8時を1、2分を過ぎたころニミッツ元帥が到着したので、私たちは5つ星の旗を上げそれを上で開きました。そしてハルゼー大将の4つ星の旗は降ろしました。これで到着についての問題が片付きました。。午前8時には真新しい星条旗をメーン・マストで、そして錨が下ろされていた艦首にはやはり真新しいユニオン・ジャック(アメリカ海軍の国籍旗)を掲揚しました。言っておきますがこれらの旗はごく普通の支給品で、予備品の中から取り出したものです。特別なものなどではありませんでした。ただ、それまでに一度も使われたことがなく、少なくとも汚れのないもので、おそらく5月にグアムで入手したものだったと思います。歴史に関する記事の中には、その旗が1941年12月7日の真珠湾攻撃の日にホワイトハウス、アメリカ合衆国議会議事堂、もしくはカサブランカで掲揚された旗である等々、あるいはマッカーサー元帥がその後東京の総司令部に掲揚した、などというものもあります。。私からしますと、それは全くありえない話で、そのような特別な旗では一切ありません。ごく普通の支給品の星条旗とユニオン・ジャックでした。これらの旗は10月に東海岸に戻ってから海軍士官学校の博物館へ寄付しました。
式場に掲げられた旗の中で唯一特別なものと言えば、82年前にペリー提督が東京湾の同じ場所にあった彼の船に掲げていた星条旗です。ガラスケースに入ったその旗を、海軍兵学校博物館から士官のひとりが持ってきました。私たちは調印式のデッキにある私のキャビンの扉の上に、前面に向けて、皆が見えるよう掲げました。日本の代表団側にも向いていました。その当時は31州でしたのでこの星条旗の星の数は31個です。私は日本の代表団の後ろ側にいましたので確認が出来ませんでしたが、彼らがデッキに上ってきた際にはおそらくこの星条旗に気づいたのではないかと思います。
Q:すみません、ニミッツ元帥は到着してからどこへ行ったのですか?ハルゼー大将のキャビンですか?
マレー中将: はい、ニミッツ元帥の到着後私たちはすぐハルゼー大将のキャビンへ行きました。私はこの日戦艦ミズーリのクオーターデッキになっていた右舷側舷門でゲストにご挨拶をしていましたので、ニミッツ元帥到着の際もそこでご挨拶をしました。念のためお伝えしますと、舷門では当直士官と必要に応じた人数のサイドボーイがお迎えに立っていました。当直士官はサイドボーイと共にしかし彼らから少し離れたところに並び、掌帆長はサイドボーイの敬礼の合図のため号笛を吹きました。私は一番端のサイドボーイより1、2歩船内側へ離れたところでご挨拶をしました。
Q: その際ニミッツ元帥は何かおっしゃっていましたか?
マレー中将: “おはよう”以外には何もおっしゃらなかったと思います。ハルゼー大将はカーニー大将やキッチェル中将と共にその場にいて、ニミッツ元帥はハルゼー大将の部屋へとそのまま入っていきました。その際、“準備は万全か?”とおっしゃったので、私たち全員は“イェッサー”と返事をしました。それが唯一発せられた言葉だったと思います。
午前7時半には2隻の駆逐艦に乗った新聞記者やカメラマンたちが到着し、戦艦ミズーリの後方両側から乗艦しました。そしてエスコート係から割り当て任務の提示を求められ、それぞれ決められた場所へと案内されていきました。平均2名の記者につき1名のエスコートが式中もずっと彼らの後ろに立っていましたので、記者たちが他に歩き回る抑止となりました。たぶん彼らは歩き回りたがると思っていましたので。カメラマンについても同じです。彼らは彼らのための場所に連れていきました。これは私たちが考えた通りうまくいき、あらかじめ決めておいた番号と丸印が大変役に立ちました。場所を巡る口論も起きませんでした。各自の番号と場所を知らせることによて、彼らとの問題は何も起きませんでした。少なくとも始めのほうでは何もありませんでした。
駆逐艦に乗ったマッカーサー元帥と彼のスタッフは午前8時40分ごろに戦艦ミズーリ中央左舷側に到着しました。ニミッツ元帥とハルゼー大将と私は乗艦口でマッカーサー元帥を迎え、ハルゼー大将の部屋へと案内しました。
マッカーサー元帥と彼のスタッフとともに、ひとりの陸軍大佐が到着しました。彼はワシントンから飛行機で降伏文書を運んできたのです。私たちはその書類を初めて目にしました。書類には当然日本の代表が最初に署名を行い、連合軍代表が続いて署名を行う予定でした。私たちは、フレーザーイギリス海軍元帥とイギリス艦隊から贈られた美しいマホガニー製テーブルと椅子2脚をデッキの中央に設置していました。それはすばらしい見栄えでした。
ところがです!届いた降伏文書を見て事態は急変しました。書類は縦1m、横50cmほどの大きさでそれを横に2つ並べなければなりません。その美しいテーブルは縦1m,横1mほどしかありません。これでは小さすぎて使えません。私は近くにいた水兵を4人連れて私の部屋の真下にある上級士官食堂へ向かいました。上級士官食堂のテーブルを持って上に上がろうとしたのですが、士官食堂のテーブルは、もちろんのことですが、固定されています。そこで私たちは水兵の大食堂へ大急ぎで降りていきました。そこでは調理人たちが朝食後のテーブルを既に折りたたんで天井から吊るし終え、調印式を見に行こうとしているところでした。そこで調理人たちが片付けようとしていた最後の1つのテーブルを手に入れました。調理人たちは、もちろんテーブルを持っていかれたくはありません。彼らには何が起こっているのかわからなかったのですが、もちろん自分たちがそのテーブルをきれいにして管理しなければいけないことはわかっています。私たちはただ、手を振りながら「後で返すから」と言ってそれを上に持っていきました。また士官食堂に戻りながら、このテーブルにテーブルクロスが必要だとわかっていましたので、士官食堂の一番近くのテーブルから緑のクロスをさっと取りました。そして食堂のテーブルを設置して緑のクロスをかけるように命じました。見た目は立派に見えました。この時には皆がすでに乗艦していました。私たちがこのテーブルを準備し終える前にすでにニミッツ元帥の姿も見えました。
Q:ニミッツ元帥は気付いていましたか?
マレー中将: 後で私が伝えた時にはニミッツ元帥はただ笑って上出来とおっしゃいました。また、あとから他の誰かが“大食堂のテーブルとワードルームの緑色のテーブルクロスを利用したにしてはよく出来たものだ”と言いました。少々冷評があったのもそのはずで、急いで掴んだテーブルクロスにはコーヒーのしみがたくさん付いていましたし、海軍兵学校博物館ではなぜきれいなクロスを選ばなかったのだと皆思っていることでしょう。しかし、あの大急ぎの中で誰が冷静にそこまで考えられたものでしょうか!とにかく何らかのものが大急ぎで必要だったのですから。
ニミッツ元帥はロシア代表団の中将と話し合われているようでしたので、私はテーブルクロスをかけて書類を置いた後、ニミッツ元帥から数歩離れた所へ行き、何かお手伝いが必要か聞きました。ニミッツ元帥によると、ロシア代表が所属の記者を彼の真後ろ、すなわち署名を行う代表や代理人のみに立つことが許された場所に配置すると言っている、とのことでした。
連合軍代表たちは、私の部屋を背にして正面を向き一列に並んでいました。第二砲塔の砲座付近の出席者は右舷側を向き、日本の代表団はベランダデッキの前方に立ち艦尾側を向き、大食堂のテーブルには降伏文書が2セット用意されていました。
記者がその場所に居続けたいようだとニミッツ元帥がおっしゃるので、私は護衛のために配備されていた8~10名の海兵隊のうちの数人を使うことにしました。そして海兵隊員に対して記者を元の場所に戻すよう手振りで合図しました。記者はおそらくそれを察知したようで、署名を行う各国代表とVIPの列を駆け足で通り抜け、第二砲塔の砲座まで行き、砲塔側面のはしごを上り始め、そのあとを.45コルト銃を持ったふたりの体格のよい海兵隊が追いかけました。記者は半分ほど上ったところで海兵隊員に足を掴まれて降ろされ、両側から腕を軽く掴まれた状態で、もとに居た場所よりも2階高い彼の所定の場所へと連れて行かれました。私は海兵隊にその記者を見張っているよう指示し、調印式中はずっと彼らがその記者についておりましたのでそれ以上の問題は起きませんでしたが、デッキの各国代表やVIP、ロシア代表までもが皆面白い冗談だと思ったようでした。ロシア代表はニミッツ元帥の背中をたたいて“愉快だ、大変愉快だ!”と喜びました。そのためその記者は追放されることは免れました。海兵隊の対応もあって事態の対処ができたので助かりました。
日本側は、ニュース映画のカメラマンによる撮影は許可されていました。私の記憶ではひとりだったと思いますが、ふたりだったかも知れません。そのカメラマンは、ベランダデッキ右舷側40mm機関砲の台座に配置されました。彼のカメラもしくは何かを取り出して神風のような自爆行為をする可能性もあるのではと思いましたので、2名の海兵隊がカメラマンの脚にそれぞれ手をかけ、その場を動かないように指示しました。台座はデッキの海兵隊よりも75センチメートルほど高かったので、海兵隊たちは片方の手をカメラマンの足に置き、片方の手はずっとだかどうかはわかりませんが、ケースに入れた状態の.45コルト銃に添えられていました。カメラマンはそのようにされることを聞いていたとは思いますが、海兵隊を全く信用していない様子で震えていました。海兵隊のコントロールのおかげでその場にはきちんと居ましたが、震えた状態でうまく撮影出来たかどうかは不明です。
その他は特に問題はありませんでした。記者やごく一部のカメラマンは他の場所へ行こうと度々試みましたが、後ろに立っている水兵や海兵隊に即座に指定の場所へと連れ戻されました。彼らは遠くへ行くことは全く出来ず、行けたとしてもせいぜい1メートルほどです。日本の代表団を立ち位置に到着させる時刻がきっちりと指定されていたため、何度も演習を行った末に割り出した時間を倍にして3分、更に念のため1分付け足して、4分という時間を導き出しました。すなわち午前8時56分に駆逐艦から小さなボートで戦艦ミズーリに到着させる予定でした。式に遅れないよう、午前8時半ごろには日本の代表団は、戦艦ミズーリから約180メートルほど離れた駆逐艦の横に付けた小さなボートで待機しており、ミズーリからの合図を待っていました。8時50分ごろにはボートは流されておよそ45メートル離れたところまで来ており、多少の時間調整は出来ると思ったのでボートを着けるよう指示を出しました。午前8時55分にボートは戦艦ミズーリの横に到着しました。式の5分前でしたが重光外務大臣はおそらく乗艦することに気乗りはしていないであろうから、予定より1分早くてもよしとしました。表向きは重光外務大臣の乗艦をサポートするように配置したタラップ下の水兵に対して合図を送りました。そして代表団が上がってきました。
Q: すみません中将、その時はどちらにいらっしゃったのですか?
マレー中将: クオーターデッキの舷門におりました。
Q: ではその時の様子をご覧になっていたのですね?
マレー中将: はい。彼らが居る場所が見えていました。私はサイドボーイよりも外側に居ました。重光外務大臣はボートから上ってこないのではと思いました。丸30秒ほどの間は座ったままで、体がわずかに揺れているだけのようにしか見えませんでした。そしてようやく立ち上がってボートから這い出てタラップを上がってきました。彼は天皇の直接の代理であるので、当然のごとく他の10名の代表たちは彼の後に上がってきました。代表団は陸軍大佐の後に続いて歩きましたが、大佐は重光代務大臣の速度に合わせてゆっくりと歩かざるをえませんでした。そして、前方の甲板から降伏文書があるベランダデッキに上がるための階段までようやく辿り着きました。時間は刻々と過ぎていき、重光外務大臣の帽子の先がベランダデッキ越しに見えたころには予定時刻から既に5秒が過ぎていました。
マッカーサー元帥は9時きっかりに調印式場から1つ上の階にあるハルゼー大将の部屋から出てきましたが、日本の代表団がまだ上がってくる途中だと分かると再び部屋へと戻っていきました。午前9時を2、3分ほど過ぎ、日本の代表団が位置に着いたところでマッカーサー元帥は部屋から降りてきて調印式のテーブルの後方に立ちました。式の冒頭、マッカーサー元帥が神への短い祈りを捧げるとアメリカ国歌が流れ、この式が恒久平和への始まりとなることを願っていると述べました。そして、日本の代表団へと向くと、前に進むよう促しました。そして“日本の代表者が前に出て降伏文書に署名を行う。”と言いました。重光外務大臣は加瀬外交官と共に前へ出て、大きな椅子にぎこちなく座ると、義足が折りたたみ式の机の中央からそれぞれの脚へと対角線上に伸びる支えに当たり、クオーターデッキまで聞こえるほどの大きな音がしました。机の支えを固定しているフックは動きはしたものの外れはしませんでした。事情を知っているものたちは皆フックが外れてテーブルが倒れないように祈っていました。幸いそのような事態にはなりませんでした。
マレー中将: 日本の代表団は船に上がってくると舷門で掲揚旗と当直士官に敬礼をしました。掌帆長が代表団に笛をふいて乗船を促してからサイドボーイは並んで敬礼をしていましたが、その間を通って進んできました。
Q: マレー中将は日本の代表団に後続して調印式のデッキまで上っていったのですか?
マレー中将: いいえ。代表団の最後のひとりが私のところに来たころには、重光大臣はすでに陸軍大佐に続いて上の階に上がろうとしていました。私は様子を見ようと調印式のデッキに上がる階段のほうに2フィート(60cm)ほど歩み寄ったのですが、そこまででした。結局私が立っていたところからは、日本の代表団の間からしか様子が見えませんでした。
その場の雰囲気、状況からすればやむを得ないかと思われますが、重光外務大臣はどこに署名をすればよいか戸惑っているようでした。加瀬外交官も特に助言するわけでもありませんでしたので、重光外務大臣はどうしたものかと困っていました。私にはその時間が1時間位に長く感じられましたが、実際には5秒か10秒ほどたったところでマッカーサー元帥が“サザーランド中将、署名の場所を教えてあげなさい。”と指示しました。第二砲塔付近でVIPの横にいたサザーランド中将は前へ出てその場所を指し示すと、重光外務大臣はやっとサインをすることができました。そして続いてもう1部の書類にサインをしました。1部は連合国用の書類で、もう1部が日本側が持ち帰るための書類だったからです。
重光外務大臣が署名を行うと、続いて梅津大将が日本帝国軍全体を代表して署名をしました。マッカーサー元帥は連合国の代表として署名をしました。様々な記録書などによると、マッカーサー元帥は署名の際に何本ものペンを使用したとされていますが、私が持っている元帥の頭上から撮影された写真では5本使用されているように見えます。多くの人は6本と言いますけれども、私の証拠として持っている写真からすると5本が正しいと思います。
マッカーサー元帥の署名に続き、アメリカの代表としてニミッツ元帥が署名をしました。そして、中華民国代表徐永昌軍令部部長、イギリス代表ブルース・フレーザー元帥、ソビエト連邦代表クズマ・デレヴャーンコ中将、オーストラリア代表トーマス・ブレイミー大将、カナダ代表コスグレーヴ大佐、フランス代表フィリップ・ルクレール中将と続きました。次に署名をしたオランダ代表コンラッド・ヘルフリッヒ中将に関して補足すると、彼は1942年2月にハート艦隊司令長官がジャワ島を去った後に後任を務めた人物で、1942年に日本軍がジャワ島を占領した際にこの地域で連合軍の指揮をとっていました。そして、最後にニュージーランド代表の中将が署名をして完了しました。
もうひとつお伝えしたいのが、コレヒドール要塞が陥落して捕虜となっていたウェインライト中将と、指揮をとっていたシンガポールが陥落して捕虜となっていたイギリス陸軍のパーシバル中将ふたりを、マッカーサー元帥は署名を行う際横に立たせました。日本軍に解放されたか、捕虜収容所の救出部隊によって救出されたかで、抑留されていた満州から前日に到着しており、ふたり共とてもやつれていました。マッカーサー元帥は署名を始めると、ウェインライト大将に最初のペンを、パーシバル中将に2本目のペンを与えて、他の3本のペンを自分のポケットにしまいました。署名最後のニュージーランド代表の番でどうやら何か疑問が生じたようで、サザーランド中将が様子を見にいき何かを伝えようとしましたが、言葉は発せられませんでした。マッカーサー元帥は署名者から1.5メートルほど後ろの何本ものマイクがある場所に居て、話したことはマイクを通じて船全体に聞こえてしまいます。サザーランド中将が指で場所を指し示すとニュージーランドの代表はその場所に署名をしていました。
ニュージーランド代表の署名が終わると、マッカーサー元帥は“これにて調印式を終了する”と締めくくりました。加瀬外交官が前に歩み寄って日本の書類を手に取ると、何か疑問に思ったのか、書類を持ってきた大佐(もしくは日本の代表団を先導した大佐)とサザーランド中将に向かってやってきて、それをなんとかするよう言っていたようでした。たしかサザーランド中将だったか、あるいは他の大佐だったかもしれませんが、ペンで書類に書き記し、“これでいいだろう。これで訂正は完了だ。”と言いました。加瀬外交官が書類を受け取りたたんだ後、代表団はタラップを降りて去っていきました。
Q: 何か不備でもあったのですか?
マレー中将: はい、カナダの代表コスグレーヴ大佐が誤ってニュージーランド代表の欄に署名してしまったために(実際にはフランス代表の欄)、最後に署名を行ったニュージーランドの代表は書く場所がなく欄外に署名をしていたため、日本の代表団より修正の申し出があったのです。誤りがあったのは日本の書類のみでアメリカの書類には正しく署名されていました。しかし日本の書類においてはコスグレーヴ大佐はカナダの欄に署名をしていませんでした。ですから修正を行ったのです。線を引き、文字を書き足すことによってコスグレーヴ大佐の署名が正しい場所になるようにしました。ニュージーランド代表から欄3つ分上です。これで大丈夫ということになりました。
日本の代表団は自分たちの書類を受け取り、司令部大佐に付き添われて小さなボートで駆逐艦へ戻り、その後東京へと帰っていきました。式終了後にはたくさんのアメリカ軍の飛行機が上空を飛び交い、それは壮観な眺めでした。式中も哨戒用の戦闘機が頭上を旋回しており、またゲストが前にいた右舷側の対空砲を除く全ての対空砲には、完全に人員が配置されていました。射撃管制室士官プレート大尉、現在は太平洋艦隊の巡洋艦、駆逐艦を指揮するプレート少将ですが、彼はその時当直士官でしたので射撃管制室にはいませんでした。射撃担当のバード中佐、現在のバード少将は射撃管制塔に、リヨン中佐は通常の持ち場である戦闘情報センター(CIC)に、航海士は艦橋にいました。
最後の将官がミズーリを去ると私たちは私の部屋へ戻りました。もしカミカゼが来たとしてもそれほどの脅威ではないとの判断で対空防御はほとんど解除しましたが、それでも何箇所かには人員を配置しました。
私のキャビンで各部門の責任者と一緒に部屋の中で座っていて、私たちは強い酒を飲みたい気分でしたが、それはできないのでコーヒーで我慢しました。コーヒーを飲んで少しずつリラックスしてくると、その中のひとりが“テーブル、クロス、椅子は保管しておいたほうがよいのではないか。博物館に寄贈すると言われるかもしれないし。スミソニアン博物館が欲しがるかもしれない。”と言いました。その時皆が同時に同じことを思い、急いでデッキに出て見ると、何とテーブルが見当たりません!緑色のテーブルクロスは壁際にくしゃくしゃに置かれていたので部屋へと移動し、英国製の椅子2脚はすでに私のキャビンの中に移動してありました。しかしながら依然としてテーブルが見つからないので、私たちは急いでメスデッキへ向かうと、調理人は嬉しそうに昼食のためテーブルのセッティングを始めているではありませんか。今回は私たちは事情を説明し、そのテーブルで食べる予定であった者は誇らしく思うべきだと伝え、再び調理人からテーブルを取り返しました。そう言われれば彼は納得するしかありませんでした。そうしてようやくテーブルを私の部屋へと運び、クロスなどと一緒に置きました。
連合国側の降伏文書をアメリカへ持ち帰るため、ニミッツ元帥は書類をミズーリに置いていきました。書類はグアムで再びニミッツ元帥の元へ届けられ、そこから本人がワシントンへ持ち帰るか、もしくは送ることになっていました。ニミッツ元帥はアメリカを代表して署名しましたので書類に対する責任がありました。ですから書類も私のキャビンにありました。このようにして降伏文書調印式にまつわるものは全て厳重に保管されることになりました。
***引用抜粋終了***