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  • クォーターデッキ

    ようこそ戦艦ミズーリへ!
    海軍の船において、クォーターデッキは伝統と名誉を有し、敬意を持って接するべき特別な場所です。船が港に停泊しているときは、ここは乗艦の場所になり、また同時に指揮命令系統の中枢の役割も担っていました。
    クォーターデッキという言葉は、昔の帆船には一段高くなった船尾甲板(クォーター)があり、士官達がそこから水兵達を指揮していたことに由来します。

    戦艦ミズーリは、アイオワ級の戦艦4隻のひとつで、世界中で一番最後まで就役していた戦艦です。ほかの3隻の姉妹艦とともに、アメリカ海軍の戦艦の中で最大・最速を誇り、最も重装備の兵器を搭載した戦艦です。

    戦艦ミズーリの全長は約270mで、アメリカン フットボールのフィールドほぼ3つ分の長さに相当します。

    足元をご覧ください。さまざまな歴史をもつデッキは、チークで作られた木製のデッキです。戦艦ミズーリのデッキは、当初から鋼鉄のデッキの上にこのようなチークを敷き詰めたものでした。チークが使われている理由は、海軍の伝統に倣ったこともありますが、そのほかにも耐久性に優れていることや、滑りにくいこと、火花を発しないことや、この下にあるスペースに対する断熱性に優れているということもその理由です。

    戦艦ミズーリ保存協会では、歴史ある船を保存する取り組みの一環として、チーク デッキの張替えの作業も行っています。

    MOひとこと(MOはミズーリ州の略称で、戦艦ミズーリのニックネームはMIGHTY MOマイティ モーです。)
    船の階に関しては、メイン デッキから上の階を表す場合には、メイン デッキから順に01レベル、02レベル、03レベルという呼び方をします。逆にメイン デッキから下の階は、順にセカンド デッキ、サード デッキ、フォース デッキという呼び方をします。艦上で“ブルズ アイ”と呼ばれる黄色い四角い表示を探してみてください。最初に書かれている数字が、その階を表しています。

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  • 第一主砲塔

    戦艦ミズーリには3つの主砲塔があり、それぞれに3門の砲身があります。すなわち16インチ(砲弾の直径40.6cm)50口径の砲身が計9門あります。それぞれの砲身は単独で上下させることが可能で、舷側方向に9門を一斉射撃することも、または必要な砲身からだけ発射させることもできます。砲弾は2種類で、重量約1.2トンの徹甲弾と重量約860kgの榴弾があります。砲弾の発射には重量約50 kgの火薬袋(薬嚢)を6つ、合計約300 kgの火薬を使います。砲身に砲弾や薬嚢を装填するために昇降機や水圧式の装填システムが組み合わされ、ほとんどの工程は機械化されていました。

    16インチ(40.6cm) / 50口径主砲 概要
    発射速度 : 1門につき毎分2発
    最大射程 : 37 km
    最大射高 : 10,915m
    必要人員数: 1砲塔につき77-110人(平均90人)

    MOひとこと
    戦艦ミズーリは、軍艦と戦う能力を当然有していましたが、実際に敵の軍艦と戦闘を行うことはありませんでした。

    MOひとこと
    ミズーリの主砲の砲身1門の重量はアメリカのスペース シャトル1機とほぼ同じです。また砲身2門の重量はボーイング747ジャンボ ジェットの重量に相当します。

    MOひとこと
    海面上における距離を表す際“海里”という単位を使うことがありますが、1海里は、地球の赤道上の子午線の経度1分の距離にあたる1,852m(6,076フィート)です。アメリカ海軍も海里という単位を使っています。

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  • 艦首、ディスコーン アンテナ

    港において船は外洋を向いて停泊していることが一般的ですが、戦艦ミズーリは陸地を向いています。ミズーリの主砲は、戦艦アリゾナの艦内で永眠している乗員達を見守るかのように上向きになっています。歴史に残るこの2隻の戦艦は、現在向かい合う形に位置し、あたかも戦争の始まりと終わりを象徴しているかのようです。1941年12月7日の日曜の朝に始まった日本軍による真珠湾攻撃をきっかけに、日本とアメリカは戦争に突入していきました。そして1945年9月2日、東京湾に停泊した戦艦ミズーリの艦上で、日本の降伏文書調印式が行われたのも、やはり日曜の朝でした。長く続いた戦争が終結し、世界に再び平和が取り戻された出来事でした。

    戦艦ミズーリの艦首部分の大型のディスコーン アンテナは、第二次世界大戦時に戦略上必要であると認識されたことから、1950~60年代に開発されたものです。ミズーリには1980年代の近代化の際に装備され、1991年の湾岸戦争で大いに活用されました。このアンテナは海軍の戦術情報システムに接続して、同じ区域にいる味方の陸・海・空軍の間での情報の共有や通信ネットワークを構築する役目を果たしていました。

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    戦艦ミズーリには2つの錨があります。それぞれ1つの重さは約13.6トンあり、約342mのチェーンで繋がれています。

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  • ワードルーム、オフィサーズ カントリー

    ここはオフィサーズ カントリーと呼ばれる上級士官専用の区画の中にあるワードルームで、船の上級士官達が食事をとる場所です。下士官以下の乗員は、公用のある場合などを除くとオフィサーズ カントリーやワードルームに入ることはできません。このようなしきたりは、艦上での命令系統や序列を維持するために取り入れられていました。

    この大きな地図は、1945年当時の乗員達が第二次世界大戦終結後にアメリカに帰還する際に描いたものです。その後も戦艦ミズーリがたどった航路が書き足され続け、湾岸戦争に出動した際の航路も見ることができます。

    この地図を復元したことによって、戦艦ミズーリ保存協会は、ハワイの歴史的建造物や物品の保存に貢献したことに対して贈られる賞を2013年に受賞しています。

    ワードルームの前方の通路沿いには、戦艦ミズーリの各部門の部門長やそのほかの上級士官および副艦長の部屋の展示があります。

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    ワードルームは、トリアージ(負傷の度合いに応じて治療の優先順位を決めること)や実際の治療を行うことができるような設備も備えていました。

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  • カミカゼ デッキ

    戦艦ミズーリでは、この場所はカミカゼ デッキと呼ばれています。
    第二次世界大戦末期の沖縄戦における1945年(昭和20年)4月11日午後2時43分、1機の神風特別攻撃隊のゼロ戦がミズーリに突入してきました。舷側に衝突した直後に火災が発生しましたが、ゼロ戦の爆弾が爆発することはなかったため、ミズーリの乗員に大きな怪我はありませんでした。ゼロ戦の残骸の中から搭乗していたパイロットのご遺体が発見されると、当時のウィリアム キャラハン艦長は、このパイロットのための水葬を行うことを命じました。艦長の命令に反対する乗員達を説得して、翌日このパイロットのための水葬が艦上で行われました。ミズーリの従軍牧師のもと、海兵隊員による礼砲発射や葬送のラッパに送られ、ミズーリの乗員が急遽手縫いで作った日本の旭日旗とともにパイロットのご遺体は深い海へと還されました。このときのパイロットは、日本海軍第五建武隊の石野節雄 二等飛行兵曹または石井兼吉 二等飛行兵曹であったと推測されています。

    このゼロ戦の突入時の写真および水葬の写真などを、衝突が起きた場所の付近のパネルでご覧いただくことができます。パネル付近のデッキ上には、水葬への参列者の位置を示す足跡のマークも表示されています。第三砲塔の主砲下から1階降りたデッキには、特攻隊の特別展示もありますので、ぜひご覧ください。

    MOひとこと
    この水葬が行われた1945年4月12日は、アメリカのフランクリン ルーズベルト大統領が亡くなった日でもありました。それに伴いハリー トルーマン副大統領が大統領となり、1953年まで大統領の任を務めました。

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  • 艦尾

    戦艦ミズーリが進水した1944年当時、ミズーリの艦尾には水上偵察機を飛び立たせるための2つのカタパルトがありました。水上偵察機は、当初はヴォート社製のOS2U キングフィッシャーが使われ、後にカーティス ライト社製のSC-1 シーホークが搭載されました。これらの偵察機は、敵の位置を確認したり、主砲による砲撃の正確性を見るためなどに使われていました。偵察機が帰還する際には、船の近くの海上に着水した後、小型のクレーンで吊り上げられて戻っていました。1949年までにカタパルトに代わってヘリコプターのためのヘリパッドが設置されましたが、それも1980年代の近代化とともに撤去されました。現在艦尾部分は、米軍人の各種セレモニーやパーティー イベントの会場として利用されています。

    MOひとこと
    湾岸戦争の際には、艦尾部分から遠隔操作式の無人偵察機が飛び立っていました。ミズーリに配備されていたRQ-2Aパイオニア型の遠隔操作式偵察機は、ガソリン エンジンの固定翼機で、テレビカメラを搭載していました。カメラが撮った映像は即座にミズーリに送られて重要な偵察情報をもたらしていました。

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    戦艦ミズーリの艦尾甲板では、乗員達の士気を高め、親睦を図るために航海中にバーベキューをすることもありました。このようなパーティーは、スティール ビーチ ピクニック(鋼鉄のビーチでのピクニック)と呼ばれ、乗員達は日光を十分浴びたり、バスケットボールやバレーボールをしたり、バーベキューを楽しんだりしていました。

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